| 〜 三木金物の歴史 〜 | |||||||||||
| 韓鍛冶の技術が基礎 三木金物の始まりは、従来の倭鍛冶の系統と550年頃大陸から渡来した百済の聖明王の王子恵とともに、帰化された人たちによる韓鍛冶の系統とが合流して基礎ができたのが始まりといわれています。これが鍛冶のまち三木の基礎です。
三木の繁栄 町の復興が一段落すると大工職人は出稼ぎをすることになり、先で評判になったのが持って行った大工道具です。つぎに行く時は品物を持って行って売りさばき、ますます評判になっていきます。江戸時代後半の19世紀に入ると鋸、鉋、鑿などのほかに庖丁、剃刃、鋏などの刃物や曲尺、やすりなどと生産品目も多くなりました。 こうして鍛冶が発展して来ますと出稼ぎの大工だけに頼っていては販売が追いつきません。宝暦年間(1751〜1764)には、材料の仕入れと製品の販売に当たる仲買人が生まれたのです。仲買人は、やがて大きくなり仲買問屋へと発展しました。寛政4年(1792)に「作屋」など5軒が仲買仲間を結成、運営していったそうです。 三木金物は、はじめ大阪の商人によって発展、大阪を中心の市場でしたが、享和3年(1803)に江戸の炭屋七右衛門(現在も金物商社)から引合いがあり、翌4年から取引きが始まっています。こうして江戸との直接取引が始まると、三木金物が全国に広がっていく基礎ができたのです。 現在の三木金物 明治維新になり、三木金物は更なる変化を遂げていきます。明治13年頃から輸入されだした洋鉄、洋鋼が使用され、製造工程の合理化で量産が可能となったからです。このため東京、大阪の金物仲買問屋だけではさばききれず直接各地方へ出張販売することになり本格的に全国へ広がっていきました。また、大工道具の域を脱して西洋道工具も生産するようになり、国外の輸出も増えていきます。 第二次世界大戦後、荒廃した国土の復興の中でも三木金物が活躍します。復興事業をするなかで道工具が必要となり、三木金物の需要が急増したからです。 一方戦前の3倍以上にも増えた地元問屋も、それぞれの販売組織を確立して新しい経済秩序をつくり、全三木金物卸商協同組合がつくられました。 現在、伝統的な大工道具をはじめ、近代的な金物製品を生産販売する我国屈指の金物産地として日本だけでなく全世界で有名な産地まで発展しております。私たちの暮らしの中で欠かせない三木金物、今後も更なる進歩を遂げていくでしょう。 参考資料 (三木市金物資料館資料・三木工業協同組合青年部資料より)
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